現在の札幌市の人口は約195万人。
東京都、横浜市、大阪市、名古屋市につぐ第5位の人口数を誇る大都市です。
2030年には新幹線が走るまでになった一大都市の札幌ですが・・・
その札幌の開拓は、今から149年前の明治2年より本格的に始まりました。
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明治1年 札幌の人口
驚くべきことに当時札幌に住んでいた人は2世帯7人しか記録されていません。
明治1年の札幌の地図です。

現在の豊平橋付近に豊平川を挟んで住んでいた「鉄一さん」と「茂八さん」とその家族の7人です。
現在は豊平橋近くの道路の脇にひっそりと「鉄一さん」と「茂八さん」の碑文が残されています。
鉄一さん
鉄一さんの正式な名前は、志村鉄一さんといいます。
鉄一さんの碑文には「氏は信州の剣客にして、石狩調役荒井金助の召に応じ、安政4年に移住す。幕名により豊平川渡守となり駅逓を兼ねる」と書かれています。
農耕の傍ら豊平川の渡守を営んでいました。この住居は通行屋として当時この地を通過する箱館奉行の宿泊所でもありました。
現在、豊平川には48の橋が架けられていますが、橋が無かった当時は渡守が必要でした。
渡守とは川などを船で渡る時の船頭及びその管理者のことです。

最初の橋が架けられたのは明治4年です。
最初の橋は、丸太を並べた極めて粗末なものでした。
この橋は完成後3ヶ月で豊平川の激流で流されてしまいます。

所蔵 北大付属図書館
志村鉄一氏についての最後は諸説あり、よく分かっていません
仕事を奪われ絶望し定山渓に向かうが途中で行方不明になったという話。
仕事が無くなった後も今の場所に住み続け冬の寒い中、囲炉裏の近くで刀を抱いて眠るように息絶えていたという話。
実際のところは分かりませんが、あまり良い最後では無かったようです。
茂八さん
茂八さんの正式な名前は、吉田茂八さんといいます。
土方職(請負業)を営んでいました。
茂八さんの碑文には「吉田茂八氏は、南部に生まれ、安政2年渡道し同4年、志村鉄一氏の話し相手として西岸の渡し守となった。資質温厚にして剛胆、狩猟を得意としていたが、後年には創成川の南3条から南6条の堀割工事を請け負つている。このためこの堀割を[吉田堀]とも呼ばれていた」と書かれています。
碑文に書かれている通り明治4~5年には大岡助右衛門の下請けで現在の創成川南3条から南7条を掘削し当時は吉田堀と呼ばれました。
吉田茂八さんの最後は、海難事故で亡くなった説や95歳ごろまで生きていた説がありますが資料がないため詳しくは分からないようです。
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まとめ
【北海道 雑学】明治元年札幌の人口は7人!?はどうでしたか?
すこしでもあなたに役立つ内容でしたら嬉しいです。
いまや人口195万人を擁する5大都市の札幌ですがわずか150年ほど前には2世帯7人とは、驚きですね。
札幌開拓の先鞭をつけたお二人があまり良い最後出なかったのは残念です。
現在の北海道があるのは、先人たちの苦難、犠牲に成り立っていることを忘れず生きていきたいと思います。
今日のお弁当

美味しいお弁当いつも奥さんに感謝です!
札幌に住みたいと思う都会ですが初めは7人とはビックリです
今の便利があるのは先人の努力のたまものですね
感謝感謝ですね♪