TOMO
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現在の札幌市は、人口約195万人を抱える日本屈指の大都市です。高層ビルが立ち並び、2030年には新幹線が開通予定など、その発展はとどまることを知りません。

しかし、時計の針をわずか150年ほど巻き戻してみると、驚くべき光景が広がっています。

なんと、明治元年の札幌に記録されていた住民は、わずか「2世帯7人」だけだったのです。

my妻.
my妻.
えっ、札幌には先住民の方はいなかったの?
TOMO
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数十人の先住民の方々が住んでいたという話もあるそうですが、詳しい記録が見つからないので正確には分からないようです。
明治元年の札幌周辺を描いた古地図。豊平川を挟んで「鉄一」と「茂八」の2世帯の住居だけが描かれている、人口7人当時の原野の様子。明治元年の札幌周辺を描いた絵図。中央を流れる豊平川のほとりに、ぽつんと2軒の家があるだけです。

上の地図を見てみてください。見渡す限りの原野の中に、現在の豊平橋付近を挟んで暮らしていた「鉄一」と「茂八」の名前だけがひっそりと書かれています。

今回は、現在のメガシティ札幌の礎を築いた、伝説の「2世帯」の物語をご紹介します。

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1. 荒れ狂う大河に命を懸けた剣客:志村鉄

現在の豊平橋付近、荒れ狂う豊平川を挟んで暮らしていたのが、札幌開拓の先駆者たちです。その一人が、志村鉄一(しむら てついち)さんでした。

📄 志村鉄一の人物像

  • 異色の経歴: 信州(長野県)出身の腕に覚えのある「剣客」
  • 命じられた任務: 幕府の命を受け、激流・豊平川の「渡守(渡し船の船頭)」となる
  • もう一つの顔: 当時この地を往来する役人の宿泊所(通行屋)も兼ねていた

当時は橋が一本もない時代。命がけで川を渡る人々にとって、彼の存在は文字通り「命綱」でした。

明治初期の豊平川の渡し船と渡守の様子。札幌開拓期における唯一の交通手段を示す歴史写真。明治初期の豊平川の渡し船(渡守)の様子。激流を相手に船を操る命がけの仕事でした。

渡守(わたりもり)とは、川などを船で渡る時の船頭およびその管理者のことです。明治4年に丸太を並べた最初の橋が架けられるまで、この渡し船が唯一の交通手段でした。

しかし明治4年、丸太を並べた粗末な最初の橋が架かります。

明治4年に豊平川に架けられた最初の木造橋。丸太を並べただけの粗末な構造で、完成から3ヶ月で流失した歴史的な写真。明治4年に豊平川に架けられた最初の橋。丸太を並べただけの非常に粗末な造りでした。(画像所蔵:北海道大学附属図書館)

その橋はわずか3ヶ月で流されてしまいますが、時代の変化とともに渡守の役目は終わりを迎えます。

彼の最後には「定山渓へ向かう途中で行方不明になった」「極寒の自宅で刀を抱いたまま息絶えていた」など不穏な諸説があり、その結末は今も謎に包まれています。

2. 札幌の「街のカタチ」を掘り起こした男:吉田茂八

志村鉄一さんの話し相手として、豊平川の対岸(西岸)にそびえ立つように暮らしていたのが、吉田茂八(よしだ もはち)さんです。

📄 吉田茂八の人物像

  • タフな背中: 南部(岩手県)生まれ、豪胆で狩猟が得意なタフガイ
  • 本領発揮: 本職は土方職(請負業)のプロフェッショナル
  • 残した功績: 現在の創成川の一部となる大掘削工事を請け負う

彼が掘り進めたその堀割は、当時は敬意を込めて「吉田堀」と呼ばれていました。そう、現在の札幌の碁盤の目の中心を流れる「創成川」のルーツは、明治元年にいた「7人のうちの1人」が手がけたものだったのです。

彼の最後もまた、「海難事故で亡くなった説」から「95歳まで天寿を全うした説」まであり、資料が少ないため真相は分かっていません。

3. まとめ:私たちが生きる「今」へ繋がる足跡

195万人が行き交う現在の札幌。そのすべての始まりは、豊平川の激流と戦いながら、たった2世帯7人で明かりを灯し続けた先人たちの暮らしにありました。

現在でも、豊平橋の近くの道路脇には、志村鉄一さんと吉田茂八さんの功績を称える碑文がひっそりと残されています。

札幌の街を歩くとき、ふと「150年前、ここにいたのはたった7人だったんだ」と思い馳せてみると、いつもの景色が少し違って見えてくるかもしれません

TOMO
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