この記事では、切腹について詳しく解説します。
この記事でわかる事
・切腹の歴史
・なぜ切腹が行われるようになったのか
・切腹のやり方
・切腹の痛み
最初の切腹は平安時代中期といわれ以降、武士の自殺の手段として切腹が定着していき時代を経て意味合いも変化して行きます。
この記事では、江戸時代の切腹について解説していきたいと思います。
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切腹の歴史
初めに切腹の歴史について簡単に解説します。
時代とともに変化していく切腹の意味合いですが室町時代に主君の死に殉ずる殉死が主でした。
安土桃山時代に豊臣秀吉の備中高松城攻めの時、敵将清水宗治の潔い態度や切腹の作法が見事だったため、秀吉も感服し、それ以降、切腹が名誉ある行為という認識が広まったといわれています。
これ以降名誉ある行為として江戸時代には武士の刑罰として定着していきます。
最初の切腹
最初の切腹は誰諸説あります。
最も有力な説は平安時代中期の、下級官吏の藤原保輔といわれています。
刃傷事件を起こし逃亡し追及の手を逃れるため出家しましたが,捕らえられ獄中で切腹しました。
最後の切腹
明治3年加賀本多家旧臣の敵討ち事件で石川県刑獄寮の裁判で旧臣12人に切腹(自裁)の判決が下され切腹したのが最後の切腹刑です。
明治13年、旧刑法が施行され刑罰としての切腹は廃止されました。
しかし以降も主に軍人の間には切腹を名誉ある自決とする思想は残りました。
明治天皇に殉じ乃木希典陸軍大将、大西瀧治郎海軍中将、阿南惟幾陸軍大将などが自決しました。
また、昭和45年に、作家の三島由紀夫氏が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内で演説を行ったのち、切腹自殺した三島事件がありました。
江戸時代の切腹
武士の刑罰のなかで最も重いものが切腹です。
また、武士だけに許された名誉的な刑罰でもありました。
・切腹は自ら選んだ名誉ある死
・切腹によって武士としての面目を保つ
・切腹によって名誉を挽回する
しかし武士でありながら切腹が許されず死罪になるケースがありました。
武士にとって死罪が適用されることは屈辱的で非常に不名誉なことです。
島原藩主松倉勝家は、島原の乱の鎮圧後、領国経営失敗と反乱惹起を問責され、大名としては異例の斬首刑に処された。
大名の身分で武士としての名誉の刑である切腹を許されず斬首刑に処せられたのは、江戸時代で松倉勝家ただ一人だけです。
切腹の本当(江戸時代)
天下泰平の世が続く江戸時代は、年代を経るごとに切腹は形式的なものとなっていきます。実質的には介錯人による斬首刑とも言えるものに変化していきます。
刀ではなく扇子で切腹
生死をかけ生き抜いてきた戦国武将とは違い天下泰平の世の江戸時代の武士は切腹できる武士は少なくなっていきます。
切腹は形式的なもとなり実際には腹を切らず、三方に乗せられた短刀に手を伸ばし体をかがめた瞬間に、介錯人が首を切り落としてしまう方法に変わっていきました。
さらに、切腹する武士が取り乱さないように三方のうえに短刀でなく扇子を置くこともあったようです。
それでも取り乱す者には、「一服」といて毒を渡されてそれで命を絶つ方法も用意されていたようです。
江戸時代を通じて、切腹は殉死(自主的な切腹)を含めて、417人と言われています。
切腹の苦痛・痛み
切腹だけでは、すぐに絶命しません。
切腹時の深さにもよりますが約30分のたうちまわる苦しみです。
時代劇などで見るような切腹では、ありません。
想像を絶する光景だったようです。
その光景は文章では書くにはグロすぎるので割愛します。
そのため時代とともに極力苦痛を伴わないものへと変化していきます。
・戦国時代は本気の切腹
・安土桃山時代・江戸時代初期は介錯人が介助する
・江戸時代中期は扇子腹あるいは一服が主流
・幕末・明治時代は再び本気の切腹
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まとめ
【切腹の嘘・本当】本当の切腹は…の記事はどうでしたか?
少しでもあなたの知りたい内容でしたら嬉しいです。
時代とともに変化していく切腹ですが今回は、主に江戸時代の切腹についてまとめました。
切腹の歴史
・最初の切腹は平安時代中期の下級官吏の藤原保輔
・最後の切腹は明治3年加賀本多家旧臣12人
武士が切腹する理由
・切腹は自ら選んだ名誉ある死
・切腹によって武士としての面目を保つ
・切腹によって名誉を挽回する
江戸時代中期以降切腹は形式的なものへと変化する
・実質的には介錯人による斬首刑
・扇子腹・一服
切腹の苦痛・痛み
・切腹だけでは、すぐに絶命しません
・切腹時の深さにもよりますが約30分のたうちまわる苦しみです
切腹は時代とともに極力苦痛を伴わないものへと変化していく
・戦国時代は本気の切腹
・安土桃山時代・江戸時代初期は介錯人が介助する
・江戸時代中期は扇子腹あるいは一服が主流
・幕末・明治時代は再び本気の切腹