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この記事では、屯田開拓顕彰広場をご紹介します。
この記事を読めば屯田開拓顕彰広場の様子や屯田(当時は篠路村)の屯田兵村の歴史がわかります。
屯田開拓顕彰広場は、札幌市北区屯田7条7丁目にあります。
近くには江南神社もありかつて篠路屯田兵村の中心地であったことを偲ばれます。
篠路屯田兵村は札幌では琴似、山鼻、新琴似に次いで4番目の屯田兵村です。
屯田(篠路兵村)の屯田兵の歴史を学び屯田開拓顕彰広場を見ると先人たちの苦労を偲ばれ今の興隆に感謝の念がわきます。
屯田開拓顕彰広場の基本情報とアクセス
住所:札幌市北区屯田7条7丁目
広場なので入場料、営業時間、電話等はありません。
屯田開拓顕彰広場の様子
このブロンズ像は、屯田地区の屯田兵開拓の指導者であった中隊長・渥味直茂大尉です。
中隊長・渥味直茂大尉のブロンズ像は、屯田地区が屯田兵の開拓によって始まり発展した功績をたたえて、屯田開基百年記念事業の一環として昭和63年(1988年)に建てられたものです。
他にも、水田開発記念碑などいくつかの記念碑が建立されています。
水田開発記念碑
度重なる水害から稲作によって兵村を立て直そうと有志が立ち上がり、明治42年に土功組合が設立されました。
明治43年公有財産を処分した資金によつて潅漑溝を建設。
大正5年には680町歩の水田を作り上げました。この偉業を讃えて水田開発記念碑が建立されました。
馬魂之像です。
駿馬魂之像は、農耕に尽くして倒れた馬魂の慰霊碑として、昭和63年(1988年)の屯田開基百年を機に小樽市張碓産の自然石で建てられたものです。
戦没者顕彰碑です。
白御影石の台座に同じく白御影石の碑が置かれ、中央上部には黒御影石の球が置かれている立派な碑です。
後ろ側には、日露戦争戦没者の11人、満州支那事変太平洋戦争戦没者の20人の氏名が刻まれています。
屯田兵第一大隊第四中隊本部跡記念碑です。
第四中隊本部が建っていた地点を明確に示すため、昭和63(1988)年の入植100年を機に、屯田開基百年記念事業協賛会により建てられたものです。
屯田はかつて篠路兵村といわれ、兵藉は屯田兵第一大隊第四中隊にあった。この碑の建立地には第四中隊本部が建ち、北側一円一万坪(3.3ヘクタール)が練兵場となっていた。屯田開基百年記念事業協賛会が昭和63年(1988年)の入植百年を機に、中隊本部の建っていた地点を明確にしておくために建立した。
屯田兵第一大隊第四中台本部跡記念碑説明版より
屯田(篠路兵村)の屯田兵の歴史
現在に屯田の基礎を築いたのは屯田兵第一大隊第四中隊です。
1889年(明治22年) 、屯田兵として北方防備任務や北海道開拓の先駆者となることを目的に220家族1056人がこの地に入植しました。
篠路屯田兵村の入村者は、徳島県29戸、和歌山県37戸、山口県49戸福岡県13戸、熊本県45戸、福井県20戸、石川県32戸、の220戸1056人でした。
寒冷不毛に耐え家族と共に北海道開拓の大きな使命を成し遂げ現在の屯田の隆盛の礎を築きました。
年表を見るとその困難がよくわかります。
年表
- 1889年(明治22年) 屯田(篠路兵村)に屯田兵入村。
- 1890年(明治23年) 公立長泳簡易小学校(現屯田小学校)開校。
- 1896年(明治29年) 江南神社造成。屯田中隊本部引きあげる。
- 1898年(明治31年) 石狩川氾濫、大洪水発生。
- 1904年(明治37年) 水害のため兵村の人口三分の一に減少。
- 1916年(大正 5年) 灌漑溝が完成する。
- 1931年(昭和 6年) 石狩川治水工事完了。
- 1955年(昭和30年) 篠路村が札幌市に編入。
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まとめ
屯田開拓顕彰広場と屯田(篠路兵村)の屯田兵の歴史の紹介記事でした。
少しでもあなたに役立つ内容でしたらうれしいです。
屯田(篠路兵村)の屯田兵の歴史を学ぶと屯田開拓顕彰広場を見る目が変わります。
先人たちの苦労を偲び今の興隆に感謝の気持ちがわきます。